昭和40年06月19日 夜の御理解



 おかげの方が多いと言う様な働き。そう言うおかげが頂けて来る。それを信心が段々分かって来ると言うのは、その目に見えないおかげを本当に分かって行く、そこが段々多く分かって行く事が信心が分かって行きよるとじゃん。見えるおかげなら誰でも分かる。そうでしょね。目に見えないおかげの唯一のそれは、まぁどれだけ分かってもどれだけ分かっても。それは、私共のまぁ感受すると言うか。
 それを私共の心の中におかげとキャッチ出来るのは、たかが知れとりましょうけれどもです。それはもう大変な事なんですね、実を言うと。そこん所を本当におかげって有難いもんだなと言う事を一つの所から色々、この思いを馳せて参ります。思いを深うして参りますと、本当にあれもおかげこれもおかげと言う事になるんです。昨日月次祭の準備を私と明渡先生と二人で神饌させて頂いたんですけれども。
 先生があの野菜を盛っておりました。それが中々難しいんです。一生懸命やってました。けどやっぱあんた先生にはあれには無理じゃないのと言うて、まぁ垢抜けこそしとらんけれどもその大体よく盛ってるんですけれど。私はあの、神饌がずっとこうなされれて行く時に後ろの方から見たんですね。所が前の方より後ろの方がいいと言う事です。これは、何時の場合でも気付く事ですね。
 私共がですね、矢張り正面に出る方を、出来るだけ綺麗にこう盛り上げるんです。果物でも野菜でも乾物でもそうなんですけれどもね、ところがそこがだんだんそりゃまぁ上手下手講釈になって来る訳なんですけれどもです。こう神ながらに盛らせて頂ておるとですね。人間心つこうた方よりも、返って人間心使わない後ろの方がですね、良くでけておる事実を何時も感じるですね。
 今日なんかでも後ろの方はとてもすっきりでけたですもんね。前はごてついてた。そんな感じです。いわゆる、その目に見える所より目に見えない所の、神様の働きの方が、あか抜けしておるんだ。実は有難いのだと言う事。先程久保山先生と話した事ですけれども。本当にあの例えば度々の神饌の時に思うんですけれども。その時その時の一つの季節感て言うのがね、神饌にこう出て来るですね。
 例えば西瓜の時期だから西瓜がお供えしてある。そりゃぁあのなんですけれども、もう色彩とかそう言う事ん中に、何時も現れておる事なんです。何か本当にあの六月十八日の月次祭と言う感じでしょうが、あの(二十代?)の何時も同じ様な物であって、色彩とかそのなんか感じで見てご覧なさい何とはなしに、六月の若葉青葉の頃の神饌物だと言う感じはするでしょうが(笑い)。
 本当に神ながらな事だと。ですからそこは見えるだけでしょう。けれどもあれをあぁしてですね。神様がお集め下さった所には、まぁどれだけ、願いが深いやら分からんのです。この間の、御月次祭だってそうだったでしょうが、あの菊美人それから、あぁなんでしたね、あのう鷹の瑞ようでしたね。あの瑞ようと言う、あのお神酒が二本。しかも真中に、菊正宗が二本を中心にしてから、あれが椛目のお礼を申し上げるならそこを申し上げよと仰るですもん。
 例えばこう言う様な大変な大仕事にです。大事業にです。椛目全体の者がです。とても、ずうにはばかる普通で思うたら、はばからん様な事柄にです。元気な心を持って、あの若い鷹が松にとまっておる様な勢いでです。取り組んでおると言う事をお礼申し上げよと。あの時にあの建築の調印の報告祭をいたしました時で御座いますよね。すと片方の方には、菊美人です。いわゆる菊は、椛目の信心でしょう。
 しかも本当にこの事を成就する為には、お互いが一段と信心を進めて行かなければならんと言う焦点がです。本気で限りなく美人です。いわいる美しゅうならにゃならん、と言う所に焦点をその事をお礼申し上げよと仰る。例えばそう言う今だかつてです。そう言うお酒のお供えも来た事が無いのに、神様のそれはもう、それっこそ手の込んだお働きと言うものは。これはもう大変な事なんです実を言うたら。
 そこが私共が段々こう、分らせて頂けば頂く程神様の働きの深さいわゆる、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多いと言う事。信心が分かって行くと言う事はです。目に見えない所の雰囲気いわゆる芽である所。そこん所を段々自分の心に実感を持ってキャッチ出来る。実感を持って出来る。それを掴んで行ける所に尽きぬみかげと言うか、尽きぬ喜びと言うか、 尽きぬ神恩報謝の心と言うのが生れて来るのです。
 今日午前中ですね、私が奉仕しとる時でしたから。原さん所の飯塚に縁についております、宅祭で帰って来とりました。で昨日もお参りして来てその事をお願いする。今日もその事をお願いするんですね。と言うのはそのなんですかね。あちらの主人がどうでもその、そば殻が必要な仕事を始めよう、と言う事になっとるんですよ、今そのそば殻がなかったら仕事が出来ん。
 て言う様にそのですからもう切実にその、お取次ぎを願ってお願いをするんですね。ですから。今日はあの熊本辺り迄でも行って見ろうかと思います。とこう言われるそうそれはもうお取次ぎを頂いて、お願いをさせて頂いて行けばね。と言うて私はあの熊本に行くならあんた、熊本には沢山お参りがあるから、あっちの中から参って来る人達もあるから、聞いといてあげようと言うて私はあのお取次ぎさせて頂いておりました。
 そしたらその時に神様から頂きます事がですね。なんとか頂きましたですね。沢山沢山の労が、あぁ仕入れられる様にお繰り合わせをお願いせよ。と言う事を仰ったです。是はおかげ頂くなと私は思うたんです。そしたらです。今日午後の三時のおやつを何時もするんですけれども。蕎麦掻きでてから(笑い)私共は何十年振りにその蕎麦掻きと言うものを頂いた。いわゆる、ありゃここら辺りでは、けいもち蕎麦けい餅と言います。
 或いはあの蕎麦掻きとこう申しますね。私だからあの今の青年の人達なんかはしらんです。それをたまたま今日それを、蕎麦掻きと言うその三時のおやつにですね、皆んなに家内が作ろうと、それも全然しらんのです。それもその以前にあの蕎麦の粉を頂いていたんです。けれども早う頂かないと虫がついちゃ勿体ないからという所に、昨日種子島からって言てうあの黒砂糖のお供えを頂いとったんです。
 だから黒砂糖と中々( ? )ですからね。それでそのいわいる蕎麦掻きを作らせて頂いた。そっで私が「あぁほんに、あのここがこのお供えを頂いた所に聞きさえすりゃわかる」と私は思うたんです。あれは日田の山奥の人からお供え頂いたんですよ。長瀬さんの奥さんの里の、こりゃ長瀬さんの奥さんに聞きゃ分かるて。ほんにあっちで蕎麦が大変出来るげなけんと、私は今日思うた。
 そしたら家内があの妹がそれを頂きながら、ああ蕎麦ならあんた久留米の光橋先生がこの蕎麦殻を売り御座る所しっちゃるですよ。久留米にどこか一軒、その蕎麦殻ば専門的じゃないけど沢山仕入れて来てから売りよんなさる所があるち。だから明日見えるけんが光橋先生に聞きなさったら分かるですよというて、あっちこっちからその蕎麦殻があるだろうと言う所のヒントをこう頂くんです。
 これなんかは、お取次ぎを頂いたら、早速形に現れた微妙な、神様の働きがですね。微妙な働きが、お取次ぎの働きがです。お取次ぎ頂いた途端に、そおいう働きになって来たと言う事、これが目に見えるほうのおかげだ。本当に不思議なこっじゃある、有難いこっじゃある、とこう思うのです。それこそ私は何十年ぶりに、蕎麦掻きを頂いたんですけど、それはその。
 蕎麦殻の今日はその切実な、蕎麦殻がなかと仕事が出来んと言う様な、そのお願いがあってるんですよ。これはいわゆる、お取次ぎを頂いたら、目に見えるお取次ぎの働きと言うものを下さる。けれどもこれと同じ様じゃない、これよりもっともっとです。目に見えない程の働きと言うものがお取次ぎを頂いたら神様の働きが、もう早速始まるからおかげをお礼を申し上げていかねばならん。
 と言う様な御理解を頂いた事がありますけけれども。目に見えないそう言う働きと言うものがです。もう微に入り細に渡って、神様の働きが始まると言う事です。ですからそこん所を、分からせて頂くと言う事は、信心が分かるのであり。いよいよ有難い信心生活が出来るのであり、そういう不可思議きわまる働きと言うものをです。いよいよ目に見えない所の、目に見えるおかげよりも。
 目に見えないおかげを分からせて貰う。先ず目に見える所のおかげをおかげと分からしてだからそこん所を。ふが良かった、偶然じゃったと言う様な事にせずにです。目に見える所は目に見える所で、大事にしていかなきゃ。神様の働きちゃ有難いなと言うて、神様の働きを称えにいかにゃいかん。天地の働きを称えないけん、それが目に見えない所の働きの上になって参ります時です。
 どれだけの働きを頂いとるやら、分からんので御座いますから。ここを分からして貰、分からんでもお働き頂いておる事を、実感させて貰うて、心強い信心生活をさせて頂けねばならない、お取次ぎを頂いておるのであるからと言う事なんです。目に見えるおかげより、目に見えないおかげの方が多いと仰る。そこん所を私共が疑わず、それをそうだと思い込ませて頂く所に、いよいよ有難い信心生活が出来て行くのではないでしょうかね。
   おかげを頂かなければなりません。